10年をふりかえって
(株)十字屋 下舘達也社長
2011年3月11日、私にとってはつい先日の様な、或いは遠い昔の出来事の様な不思議な感覚に陥る、忘れがたい一日です。「嘘だろう、冗談だろう」と思えるような経験したことのない、激しくそして永遠に終わらないと思える程の長時間の揺れ、しかしそれは巨大な津波の序章でしかありませんでした。
小社、十字屋の主原料でもあり三陸宮城を代表する海産物「ホヤ」のことを軸に、思い返してみたいと思います。
会社再開までの一ヶ月、無事だった1年分の原料ホヤ
2011年3月11日17時40分JR仙石線本塩竈駅周辺の様子
殻付きホヤを剥いた可食部分/身の歩留まり率は20%未満です。殻付きホヤ200gでは身の部分が凡そ40g、『元祖ほやの塩から』は110g入りですから1瓶換算では3個弱になりましょうか。あの当時、我々には約1年分以上の原料ホヤがあり、塩竈魚市場近くに在る冷凍庫に保管を委託しておりました(奇跡的に冷凍庫の被害は軽微で済みました)。
震災から数日後 十字屋近隣の様子
それらのこと(在庫等々)に気がいくようになったのは、1週間後ぐらいでしょうか。安否確認ができない社員のこと、漁業者/生産者、工場内被害の確認、仙台市内の店舗の状況、ありとあらゆる事態の把握、やはり安否確認が最優先でした(幸い人的被害はございませんでした)。震災の翌日、出社してきた社員には「自分たちの生活を優先に」と電力や水道が戻るまで会社はクローズすると伝え、帰した記憶があります。
それからひと月近くの停電/断水を経て、会社を再開するに至りましたが、震災前の日常を取り戻すことは容易ではありませんでした。
全滅した仙台湾のホヤ、奇跡的に見つかった桂島の種ボヤ
ホヤの旬は初夏です。3年の成育を経て数ヶ月後に収穫を迎えるはずだった「ホヤ」は全滅、全ての宮城の養殖ホヤを失いました。身動きは取れず、日々の暮らしがやっとの毎日でしたが、その後、県当局やご縁を頼りに辿り着いたのが、比較的津波被害の少なかった青森県陸奥湾です。そこには以前から宮城の種ホヤが入っておりました。
水揚げから脱殻/処理そして冷凍、その工程にはスピード感が求められ、その作業ができる工場が必要です。本当に有難いことに、願ってもない様な設備とスキルを持った、陸奥湾の傍にある企業様に、その作業を引き受けていただきました。
震災後の離島桂島の様子。この島で奇跡的に種ボヤの無事が確認されました。
その後、地元塩竈の離島・桂島の陸上で奇跡的に種(タネ)ボヤの無事が確認され、今現在の宮城のホヤの親はその種だと言われております。
いずれにしても数年間は地元での水揚げは不可能で、ホヤの争奪戦的な事態も起きましたので、価格的には震災前とは全く比較にならないという現実が数年間続いたのであります。
未来に向けて豊かな海を取り戻す努力を
昭和28年1953年創製、日本初のホヤの加工品『元祖ほやの塩から』は素材の持ち味を生かし、手間暇かけて製造しております。宮城のホヤが戻るまでは、限られた原料在庫で、価格は極力抑えて、限定販売/限定出荷を余儀なくされました。
大震災以前から、浅海/近海漁業での各種魚種の不漁や不足状況が続いており、震災後はさらに一層拍車がかかってきている感があります。やはりキーワードは「地球温暖化」であり、ここ数年の異常気象被害の甚大さは今まで類を見ない事態で、地球全体の問題でしょう。さらには、昨年始めからの新型コロナウイルス禍の終息には、全人類の英知を持って臨むべきと思います。
大震災後、様変わりしたのは水揚げする浜から人の姿が極端に減ったことかもしれません。毎年3.11を迎える毎に報道等での特集があり、「3.11には一人一人にそれぞれ物語がある」と言われ、様々に復興へ立ち向かう人の姿が紹介されています。一次産業の衰退は大震災後に特に顕著になりましたが、これはもう致し方ないことかもしれません。
未来に向かって、豊かな海を取り戻す努力を続けたいものです。
2021.01